トップ アイコン     恩寵園卒園生の街頭ビラ
2000年3月5日
カウンタ
from 2000/3/5

 3月5日、恩寵園卒園生9名と支援の大人達10数名が集まり、街頭でビラまきをしました。
10時 
数名の卒園生達と船橋駅にて落ち合い、配布の打ち合わせ。
11時
卒園生数名と支援の大人10人程度が集まる。
二手に分かれ、ビラ配りを開始。代表がハンドマイクで案内。
途中、エドワードと交代。その後卒園生も、自らマイクを握り、廃園反対を訴える。
カンパ5000円下さる方あり。受け取りもよく、ビラ約1500枚配布。
12時半
食事。帰りの交通費もない卒園生もいるので、交通費として各2000円支給。
支援の大人は、当然自己負担。
15時
北習志野駅前でビラ配布。短時間かつ人通りが少ないながら、約800枚配布。
カンパ3000円下さる方、子ども達のために、応援の短歌を詠んで下さる方、「恩寵園の前をいつも通るけど、すりガラスで中が見えない」と心配する方など、総じて、通行人の関心は高かった。卒園生達と直接話している方も、ずいぶんいた。
16時
恩寵園新理事長 最主氏宅を訪問。卒園生がビラを渡し「恩寵園をつぶさないで欲しい」と要請。最主氏は「個人的意見は言えない。千葉県との話次第」と、あたかも決定権が千葉県にあるような口振り。結局、要請に対する明確な返答はもらえず。泣き出した卒園生もいた。
17時
恩寵園に行く。チャイムをならし、「お待ち下さい」と応答があったきり、5分ほど待っても誰も出てこない。鍵がかかっていなかったので、ドアを開け中に入る。林先生が出てきて応対。「副園長がいないので、チラシは受け取れない。他の保母にも渡せない。個々の保母に手渡すこともダメ」と相手にしない。「廃園は正式に決まっていない。保母達から取った退職要同意書も、知らない」と、知らぬ存ぜぬ。
主任が引っ込み、男性指導員が出てくる。「帰りなさい」と追い出されそうになるところを、「弟や妹に会いに来た」と面会を要求。それぞれ、卒園生が恩寵園の廃園反対のために頑張っていると、保母に伝えるように弟や妹たちに頼む。
18時半
次回の打ち合わせをして解散

2/5(日)街頭配布ビラ (社会福祉法人恩寵園の最主理事長にも手渡し済み)

ボクたちのふるさと「恩寵園」をつぶさないで
 ボクたちを殴った大人達、それを許した大人、大人は誰も謝っていません


 私たちは、恩寵園の卒園生です。
 私たちは、恩寵園において、長い間、大濱浩園長より虐待をうけていました。4年前、集団で脱走し、児童相談所に駆け込みました。そして、「園長先生をやめさせて欲しい」とお願いしました。ところが、千葉県の職員は、園長先生を辞めさせず、私たちを追い返しました。その後私たちを守ってくれる保母は一斉に退職しました。集団脱走した私たちも、教護院に送られたり、親がしっかりしていないのに帰され一人暮らしをしたり、中卒で恩寵園を出て就職したりと、恩寵園を追い出されるようにして出ていきました。
 そして、今、恩寵園が廃園になると聞かされました。私達にとって恩寵園はふるさとであり、子ども時代を過ごした場所なのです。それがなくなってしまうのは、やり場のないむなしさと悲しい気持ちでいっぱいです。
 私たちは、施設の中で園長を始め大人から様々な暴力を受けてきました。いつも誰かが暴力を受けていました。私たちを殴った園長を始め大人達は、誰も一度も謝った事はありません。私たちの仲間は、施設の責任者である千葉県へも、施設の中の暴力を無くして欲しいと訴えに行きました。でも千葉県はなにもしてくれませんでした。
 今恩寵園にいる子供達も、私たちも、兄弟・姉妹のように仲良く暮らしています。虐待を受けていたけれど、私たち子ども同士は、一つの家族でした。恩寵園が廃園になり、他の養護施設に移されると、家族として暮らしてきた仲間と離れ離れになります。養護施設を変わるということは、学校を変わるということです。子どもたちは、見知らぬ地域で、新しい学校にも慣れていかなければなりません。子どもたちには、とてもつらいことです。子どもたちには、新しい不安な場所ではなく、落ち着ける場所が必要です。
 私たちは、子ども達のための恩寵園を願っています。しかし、恩寵園を廃園にして欲しいと言ったことはありません。望んでもいません。恩寵園が生まれ変わり、子どもを大切にするようになったら、卒園生として、ふるさと「恩寵園」を訪れたいと願っています。恩寵園は私たちにとって、「実家」であり、「ふるさと」なのです。子どものための恩寵園に生まれ変わって欲しいと願っています。
 これを読んで下さった方にお願いします。千葉県知事宛に、ハガキを書くか、電話・FAXをしていただけないでしょうか。私たち卒園生の声を、千葉県知事に伝えていただけないでしょうか。恩寵園をつぶさないために、ご支援をお願いいたします。                  二〇〇〇年三月五日 恩寵園卒園生 有志


 なぐられて みなで逃げし 恩寵園 ふるさと悲し ほかになく
 園長は きらいだけれど ボクたちは みんな仲良し 恩寵園

オレたちのささやかなルーツを奪わないで


 どんなに虐待を受けていても、助けのない生活が毎日続いても、オレの友だちがいるというだけで耐えることができた、心の拠り所だった「恩寵園」です。家庭の事情で、親と暮らすことのできなくなったオレたちの、最後の居場所だったのです。
オレは小学校5年生の終わり頃から中学を卒業するまでの間、恩寵園で暮らしました。その間に受けた死にそうになるくらいの殴る、けるの暴力、脅迫はすさまじいものでした。ご飯を3日間も食べさせて貰えず、腹が減って4日目には倒れて、やっと一切れの食パンを食わせてもらいました。
 また、廊下を走ったというだけで、一週間続けて正座をさせられ、眠るときも正座をさせられたままでした。学校も休ませられました。
 オレの施設の友だちも、みんな、言葉で語り尽くすことができないほど様々な虐待を受け、殴られることは、日常茶飯事でした。これは自分がやられることの恐怖と、見させられることの恐怖があり、耐え難いものでした。
 今、施設は園で暮らす子ども達の唯一の住まいなのです。本当なら、そんな子どもの生活の場所を守り、子どもの気持ちを理解してくれる大人の居る場所でもあるはずです。悪いのは恩寵園を子どもが安心して暮らすには余りにもかけ離れた場所にし、子供に対しての接し方を知らない大人です。
 恩寵園が新しく生まれ変わって欲しいのです。オレたちが心の安らぎを得られないまま、未来への安心を約束されないまま、俺たちの気持ちを無視して、大人が勝手に決めることは、もうやめて欲しい。いい思い出がなく、卒園後、園に一度も遊びに行ったことのない卒園生はオレを始めとして、とても多いのです。みんなで遊びに行ける園にして下さい。オレたちの気持ちを無視して、大人が勝手に決めることは許されません。
 皆で暮らしたあの家が無くなろうとしていることは、絶対に受け入れるわけにはいかないのです。どうか、オレたちの気持ちを分かって下さい。そして、恩寵園を守って下さい。お願いします。  (卒園生Y・T)