トップ アイコン   千葉恩寵園裁判資料
退職した保母の陳述書
カウンタ
from 2000/1/26


陳 述 書


一九九九年六月二一日
千葉地方裁判所民事第五部御中

一、私の経歴


 私は、昭和六〇年三月に道灌山学園保育専門学校を卒業し、同年四月に思寵園に保母として就職しました。その後、平成三年ころに副主任保母となり、平成九年三日に退職するまで、恩寵園に一二年間保母として勤めていました。

二、恩寵園での園長の指導方針

 恩寵園に就職してまず驚いたことは、園長をはじめとして、子どもが言うことを聞かなかったら叩く、生活規津が非常に厳しいということでした。園長は、「言ってわからないとさは、体で覚えさせないと子どもはわからない」という方針で、保母たちも、主任保母の○○○○を除いて二三、二四才と若い人ばかりだったので、園長の方針に従っていました。私は、まさか養護施設でこのような体罰や規津一辺倒の指導が行われているとは思っていませんでしたので、とても驚きました。
 ところが実際に少しずつ恩寵園に慣れてみると、園長が怒り出すと大人でも震え上がるほど怖いので、職員としては園長を怒らせないようにするのがやっとで、子どもと一緒に謝ったり園長を宥めたりするのがやっとで、とても園長の方針に逆らうことなどできないということがわかってきました。

 例えば、私が就職してすぐ、先輩の保母が「保母室で子どもを叱っているようなときに、園長先生が入ってきたら、ハサミとかカッターとか危ないものは引き出しにしまうのよ。」と言われ、どうしてだろうと思ったのですが、これは園長が、子どもが黙っていたり少し反抗的だったりするとすぐにカッとなって、ハサミ等を子どもに投げつけるからだったのです。また、子どもが園長の質問に答えられないと、園長は「しゃべるロがないんだから、食ベる必要がない」と言い、それでも職員が食べさせると「食ベる□があるなら、どうして答えないんだ」と言い、その後でも例えば子どもが行事に参加しているような時に急に「あの問題はどうなっているんだ」と言いだし、延々と何か月もそのことを言い続けるのです。また、子どもが問題行動を起こした時に、園長から見てその子が反省していないように見えると、保育室の前の廊下に正座しているように命じたり、立たせておいたりし、食事もさせず夜の就寝時問がきても寝かせずに、いつまでも叱り続けるということもままありました。

 園長の体罰で私がよく覚えているのは、子どもを叱っている時に子どもが手に持っていた紙にライターで火をつけたことや、子どもがお風呂に入っていた時、中でふざけていたという理由で真冬の庭に裸のままで立っていろと命じ一時間以上も立たせていたこと、新聞一面の漢字を全部ノートに書けと命じ、書ききれなくてたまってしまったら、一年後に部屋替えの時にその子の名前だけ呼ばず、その子は新しい部屋が与えられなかったために、元の部屋の荷物をまとめて廊下に立っているしかなくなったことなどがあります。その子については、さらに廊下で立っているところへ園長が来て叱り、親から虐待を受けて園に来た子だったため、防御本能から頭の前に両手の握りこぶしを合わせて、ぶたれるのを防ぐような格好をしたら、園長が「なんだ。ボクシングをしたいのか。したいなら何時でも相手になってやる」と言いながら、本当にその子の頭を拳で殴りました。

 私を含め保母の中にも園長の体罰や厳し過ぎる指導方針に内心批判的な人も結構いましたし、時には園長に対してもそれを言葉に出して言うこともあったのですが、そういうことを言うと逆に園長に「あなたの指導方針がなっていないから、私がそうせざるを得ないんじゃないですか」などと責められたり、園長が子どもに八つ当たりしたりするので、子どものためにも言えなくなってしまい、せめて子どもがひどく叱られたりしないように庇ったり取り成したりするのがやっとでした。

三、平成七年一〇月の児童相談所所長会議の報告書について

 平成七年八月未頃、園長から「児童相談所に匿名の電話が入って、園で子どもに対してタパコの火をつけたという内容だったらしい。児童相談所の人がいろいろ話に来るが、タパコの火をつけたなど事実ではないし、そんないいかげんな匿名の電話を真に受けて来られても、こっちは何も言えない。」という話がありました。私は、その前に園長が○○君という男の子が持っていた紙にライターで火をつけたところを見ていたので、この時のことを誰かがタパコの火と間違えて言ったのだろうと思いました。園長と主任保母の○○○○さんは、誰が匿名の電話をかけたのかというとばかり問題にしていて、子どもへの体罰が通報されたこと自体にはあまり何も感じていないような様子でした。

 その後、一日だけでしたが、実際に各児童相談所から大勢の職員が来て、私たち職員と高学年以上の子どもから事情を聞きました。園長と主任保母抜きで聞いてくれたので、みなほぼ事実を話せたと思います。

 平成七年一〇月に、主任保母と副主任保母である私と○○が園長に呼ばれ、児童相談所所長会の報告書というのを「こういうものが出た」と見せられました。その際、園長は、この報告書を私たち三人にだけ見せて他の保母には見せないつもりだと言いました。私が「どうしてですか」と聞くと、園長は「あなたたちは、こういうものを見てもちゃんとした判断ができるが、ほかの保母はレベルが低いから、これを見てもわからない。」と言いました。私が「そんな失礼な言い方はないんじゃないですか」と抗議すると、園長の答は「同じ給料をもらっていても、ちゃんとしたことができない人もいる。そういう人たちは拾料どろぼうと言ってもいいくらいだ。」というものでした。最終的には、この報告書に対してこれから恩寵園ではこのように改善していくという回答を提出しなければならないという話で、私から、それならば職員全員がこの報告書のことを知らなければ改善案も出せないと園長にお願いして、全員の会議で回覧しました。この会議で、園長は一切発言せず、主任保母の○さんが園長の代理のような形で「この報告書にあがっているようなことを園長先生がしなければならなかったのは、保母の指導力が不足しているためなのだから、これは園長先生だけの責任ではなく、保母の責任です。」と言いました。確かに私たち保母にも責任はありますが、報告書はまず園長の体罰や指導方針のことについて書いてあるので、私たちは、園長の責任をさておいて保母の責任だけを言うような話はおかしいのではないかという趣旨の発言をしました。また私たちは、今まで園長と私たちがやってきた間違った指導についてはきちんと子どもに謝るベきだと主張したのですが、主任と園長はいろいろと理由をつけてこれをしようとせず、結局、私たち保母だけが子どもに各自直接謝ることにしました。
 報告書に対する園の回答について、私は、職員全体の会議で決めて、その内容を提出すベきだと思っていたのですが、いつの間にか園長と主任が私たちの知らないうちに提出してしまい、後でそのことを知って、内容を教えてほしいと頼みましたが、園長の「見せる必要はない」の一言で教えてもらえませんでした。

 その後園長の身体的な体罰は減りましたが、園長の精神的に子どもを追いつめる行為に変わりはなく、私たち保母から見ると、園長が身体的体罰をしていたことを本当に反省してしているのではなく、県の手前今は控えているにすぎないように感じられました。たとえば、平成七年の一二月に、子どもが他の子どもの部屋で(園では職員の許可を得ずに他の子どもの部屋に入ることが禁じられている)ボール投げをして遊んでいたところ、園長がその子に「自分の部屋を出ていくか、他の部屋の子どもになるのか」という無理な選択を迫り、子どもがきちんと謝っているのにこれを聞き入れず、何度謝りに行っても同じ選択を迫って、子どもがすっかり困惑してしまったことがありました。また、平成八年の二月四日に千葉県児童福祉施設協議会のマラソン大会があり、低学年の男の子の一人が子ども同士のじゃれあいで顔にアザを作っているのを園長が見つけ、県や児童相談所の職員にアザを見られたら何を言われるかわからないからとその子を参加させないと言い出し、職員が参加させてほしいと頼むと、その子を参加させないか、園全体の子どもを参加させないかのどちらかだと無茶な選択を迫りました。

 平成七年一〇月の報告書の件のあと、毎月児童相談所の人が三人来て、私たち保母から子どもへの処遇のことを聞き、これにアドヴァイスをしていくようになりました。私たち保母は、児童相談所長会議の報告書では園長の体罰や指導方針のことが問題にされていたのに、どうして園長ではなく私たちが指導されるんだろうと府に落ちませんでした。

四、平成八年四月一日の部屋替え問題と二日の園長による体罰

 毎年四月一日には、子どもたちの部屋替えと各部屋の担当保母の発表がありました。これについては、大体いつも園長と主任保母が決めるのですが、平成八年四月一日に発表された内容は、新任の保母だけで当時処遇の難しかった小学校高学年の男子の部屋を担当させるとか、今まで幼児の担当だった保母を急に中学三年生の進路指導にあたらせるとか、今まで全体の子どもを見ることになっていた副主任を急に幼児の担当にまわすとか、到底子どもたちに適切な処遇ができる内容ではなく、保母全員大変驚きました。子どもたち自体に関しても、小学校高学年男子と中学生男子の処遇の難しい子どもたちをひとまとめにしてしまうような剖屋割りで、これでは子どもたちにとってもよくないと思いました。

 ○主任や指導員である園長の息子の○○○さんも、この部屋割りはおかしいと言っていたのですが、園長の決めたことだから仕方ないと園長に対しては何も言ってくれませんでした。

 そこでこの四月に就職してきた新任の保母を除く全員の保母が、園長に「この部屋割では、とても適切な指導ができない」と訴えましたが、「人事権については園長に権限があるのだから、職員が口を出すことではない」と一喝されてしまいました。また園長が私に、「何がそんなに気にいらないんだ。あなたが幼児の担当になったことが不満なのか」と聞きましたので、私が「不満ではないけれど、園長先生のお考えを伺いたいのです」と答えると、「ここでは言えない」と言い、「なぜ、ここで言えないんですか」と聞くと、園長は「言ってもいいなら言うが、これでできないのなら仕方がないな」と言いました。私がさらに「仕方がないって、どういうことですか」と開くと、「これでできないなら、辞めるしかないんじゃないか」と言いますので、私も、これまでの園長の子どもに対する体罰や私たち保母の意見を無視した一方的なやり方、少しでも批判的なことを言えばすでに辞めろというやり方のすベてが頭に浮かぴ、我慢の限界がきたような気持ちで、「なんの説明もされないで、そのようにおっしゃられるなら、辞めるしかないと思います」と言ってしまいました。すると園長は、まるで自分のやりかたが気にいらない者はさっさと辞めろと言わんばかりに、「他の人はどうなんだ」と他の保母全員を見回しました。他の保母たちも、おそらく私と同じ気持ちだったのでしょう。次々とと全員が「私も辞めます」と答えました。

 このようにして私たち保母全員が辞めると言ってしまったわけですが、子どもたちのことを考えれば、実際に明日から辞めてしまうというわけにはいかず、別棟の職員宿舎に集まって、これからどうするかを話し合いました。

 後で子どもから聞いた話ですが、彼らは、保母がいないことや部屋割りの発表がないことに不審を抱き、○○○さん(園長の息子)に「先生たち、どこへ行ったの」とか「四月一日なのにどうして部屋割りの発表がないの」とか聞いたそうです。すると「今先生たちは何か話し合ってる」と言うので、さらに子どもが「どうかしたの?」と聞いたところ、○さん(園長の息子)が「子どもには関係ない」と言い、ビデオでも見て待っているように指示したので、子どもたちが「何を言ってるんだ。そんな事態じゃないのに。いつもビデオとかお菓子とかでごまかして、自分たちには何も教えてくれない。」と怒ったそうです。実際、何人かの子どもが「どうなってるの」と私に聞きに来ましたので、「今年の部屋替えのこととか、いろいろみんながいいように暮らせるために緊急に話し合わなければならないことがあって集まっているんで、タ方には戻るから、それまで時間ちょうだい」と説明しました。

 話し合いの中で、保母全員は、一方で、あの園長の下ではやっていけないという気持ちと、他方で子どもを放ったらかしにはできないという気持ちで一致していました。そこで、○主任に間に入ってもらい園長と話し合おうということになり、○主任も同意してくれました。

 ところが、翌四月二日の朝、私たちが前日から寝ないで話し合っていたために少し遅刻してしまったところ、○主任は怒って「もう間に人らない」と言い、園長には顔を合わせるなり「何だ、あんたたち辞めるって言ったのに来たのか」と言われて、話し合いどころではなくなってしまいました。

 このような状況の中で、四日二日当日にも、○○○○君、○○○○君、○○○○の三人の男の子が屋上で遊んでいるのを園長が見つけ、立て掛けてあったハシゴを○指導員(園長の息子)にはずさせて降りられないようにした上、「座っていろ」と命令し、当日は雨も降っていて寒い日だったにもかかわらず、二時問もの間、この男の子たちを屋上に放っておいたという出来事がありました。

五、平成八年四月三日から五日にかけて子どもたちが児相に駆け込んだこと

 四月三日も、保母たちは、集まって子どもたちのことをどうしたらいいか話し合っていました。
 私たちは全然知らなかったのですが、この四月三日の日中、○○○○さん、○○○○さんの二人が、思寵園で大変なことが起きているからと、公園かどこかから児童相談所に自分で電話して迎えに来てもらい、園長の体罰や一方的なやり方、そのために保母全員が辞めてしまいそうなことを話したようで、児童相談所から連絡を受けた園長から、この子たちは児相に泊まると聞かされました。

 私たちは、辞めるにしても子どもたちが自分たちのせいで保母が辞めると誤解したりしないようにきちんと説明しなければと思い、名自担当の子どもたちに、私たちが辞めるのは決して子どもたちのせいではなく、園長先生と話し合った末辞めるしかないことになったと説明しました。辞めていく私たちにとって、何より心配だったのは園長の体罰だったので、「私たちは辞めて、これからあなたたちを守ってあげられないけど、もし何か困ったことがあれば、児童相談所に相談してね。」と言って子どもたちに別れを告げました。

 この三日の日のタ方、前日に屋上で正座させられた○○○○君、○○○○君、○○○○君の三人と○○○○君、○○○○君、○○○○君の計六人が、今まで園長先生がやってきたことのすベてを話そうと、やはり児童相談所に駆け込みました。その後、四日に三人、五日に二人と全部で一三人の子どもたちが、それぞれ市川、柏、銚子、千葉市の各児童相談所に駆け込んだのです。

六、子どもたちが児童相談所に行った直後のこと

 すでに辞表も出しすぐにも園を出て行くことになっていた私たちですが、子どもたちが児童相談所に駆け込んだことで、児童相談所や県が動き出し、私たちも辞表を撒回して子どもたちへの対処に専念することにしました。

 四月四日のことだったと思いますが、県児童家庭課の平野課長補佐から、子どもたちが帰りたがってるから迎えに行ってほしいと言われました。でも、園長とはあいかわらず話ができていなかったので、この状態ではとても迎えに行くことはできないが、とりあえず五日に子どもに面会にだけは行くと答えました。

 五日に、面会に行くと、子どもたちは「四日に園長が来たが、児相ではにこにこぺこぺこしていて、いつもと違っていた。四人(園長、園長の妻、○主任、園長の息子晃)が辞めないと帰らない。学校に行きたいけど、園には帰りたくない。園長先生には、怖くて何も言えない」と言っていました。
 六日に、中央児童相談所の前田所長が来て、小学校高学年以上の子どもに話をしました。前田所長は「私は園長先生と仲がいいし、園長先生も反省しているから、許してあげて」と言ったのですが、子どもたちは「園長先生は、反省なんかしてないし、謝ってもいない」と園長の体罰のことを話し、「世の中ではそんなこと許されないのに、園では許されるのか」と訴えました。これに対して前田所長が「君たちも悪かったから、園長先生がそういうことをしたんじゃないの?」と言ったので、あとで子どもたちは、「あの人はだめだ。園長の味方だ」と言い、強い不信感をもったようでした。

 前田所長は、私たち職員にも「園長は体罰や虐待をしたかもしれないが、子どもたちにそういう要素があったから、園長がそういう行動に出たんじゃないですか」と同じことを言い、私たちが「子どもが悪いことをしたのは事実ですが、だからといって園長がしたことは許されることではないし、虐待だと思いますがどうですか」と言っても、園長の立場を擁護するばかりで、親から虐待されてきた子どもを扱う児童相談所長でありながら、「虐待」の問題がちっともわかっていない人だ、これ以上話しても無駄だと思わざるを得ませんでした。
 実は、前田所長のいる中央児童相談所にも六日の日に子どもが躯け込んでいるのですが、職員に「君たちも悪かったんじゃないの」と言われて、その日のうちに帰されています。

 八日に、園長から、一〇日以上子どもが戻らないと法的に子どもが戻れなくなるという話や、園長の妻で経理をしていた○○○○さんから、子どもが戻らないと園にお金が入らなくなるという話があり、九日には、前田所長から「子どもの学校に行く権利を奪うのか。私は児童相談所長として忙しい中何回もこの園に足を運んでいるのに、私を怒らせる気ですか。このままだと県は黙っていませんよ」とまるで職員を脅かすような言葉がありました。私たちは、園内の問題が何も解決していない中で子どもが帰ってきても混乱するだけだとは思いましたが、仕方なく一〇日に迎えに行くことにしました。

 ところが、一〇日の朝、子ども一三人が児童相談所に駆け込んでいることが新聞に載り、新聞記者が園長に会わせろと大勢押しかけてさて大騒ぎになり、迎えに行くどころではなくなりました。

 一一日、県の平野課長補佐が来て、保母に「あなたたちは、率直に言って園長にどうして欲しいと思いますか」と聞くので、子どもたちの意向も考え、「辞めてほしい」と答えると、「県には権限がない。辞めさせることができないとしたら、どうして欲しいか」と聞くので、(1)体罰をしない(2)園長は子どもへの直接の処遇をしない(3)職員との話し合いの場を設ける(4)子どもの自主性を尊重するために子どもの自治会活動を認めるなどの要望を出しました。平野課長補佐は、それらについて園長を説得したらしく、園長も新聞沙汰になった手前どんなことをしても子どもを連れ戻さなければと思ったのでしょう、これら四項目の約束を文書にしたものを私たちに見せ、その日のうちにそれを持って子どもたちを迎えに行って欲しいと言いました。

 一一日に私たちが、この紙を持って子どもに会いに児童相談所に行き、それで園に帰って来た子もいましたが、市川児童相談所にいた子どもたちは「書いたものだけでは信用できない。四人と直接話をしたい」と言い、実際一二日に、四人との話し合いがもたれたのですが、結局子どもたちの納得は得られず、この子たちは園に戻りませんでした。

七、子どもたちが児童相談所から戻ったあとのこと

 子どもたちが児童相談所に行ったのは春体み中でしたが、新学期も始まり、学校のクラスも新しくなっていることから、学校のことが心配になったらしく、四月二三日ころまでには、全員が園に帰ってきました。

 園長は、四月半ばに何人かの子どもが戻ってきた時点で、子どもたちに謝ったのですが、そのとき園長が笑っていたり、「君たちも悪いことをしないでほしい」などと、体罰をふるったのも子どもの問題行動のせいだと言わんばかりの発言をしたため」むしろ子どもたちの不信感をあおる結果に終わりました。全員の子どもが戻った後の五月はじめ、園長は再度謝りましたが、子どもたちの反応は「謝られても、もう信用できない」というものでした。

 また、子どもたちは、児相に行っている間、児相に守られているという意識から、今まで園長に言えなかった園長批判を口にしてしまったわけですが、園に戻ってからは、園長がそのことで今度はどんな仕打ちに出るかわからないという恐怖心や小さいころからの園長の仕打ちを思い出したことの恐怖心から、とても怯えていて、園長の姿を見るだけでも拒否反応を示すといった状態でした。

 園内の処遇のことについては、県の指導で児相の職員が来て、私たち保母にカンファレンスをしましたが、園長の体罰・虐待・管理についての方針を改めるといった話はまったくなく、ただその時点での子どもの処遇について職員の指導の仕方を話し合うだけでした。

 ある児童相談所の職員から「園長の指導は、前田所長が行う」という話を聞き、私たちは、前田所長は、園長と仲がいいことを強調している人で、子どもにも信用がないし、体罰を容認したり職員を脅したりしており、園長の指導者として相応しくないという手紙を各児相と県の成田課長あてに送りました。それで前田所長による指導というのはなくなったようですが、その後も、園長が指導されている気配がなかったので、さらに成田課長に聞くと、ただ県の方でやっていると言うだけで、誰がどうやってと問いても、それは言えないという答えで、おかしな話だと思いました。

八、子どもたちが荒れ出した平成八年夏のこと

 子どもたち、特に小学校高学年以上の男子は、今まで園長が体罰と厳しい規律で管理していたのが、急に園長が直接処遇をしなくなり、かといってそれに代わるようなきちんとした処遇の基準もできていないこと、子どもたちが園長の体罰を訴えたのに大人の側がそれに対してきちんとした対処をしてくれないことなどが原因で、次第に荒れていき、夏頃には無断外泊やたばこ、職員の暴力などさまざまな問題行動を起こすようになってきました。

 私たちは、県の成田課長に、経験豊富な施設内の子どもの処遇の専門家を入れてほしいと要請していました。八月三〇日に成田課長が来園したのですが、課長はただ「園長と職員が伸良くやってほしい」と言うだけで、私たちが「園長の方針が変わっていない以上、とても園長の方針に賛成できない。子どもが荒れるのも、小さいころから園長に体罰や力で押えつけられてきて、それを学習しているから、暴力的にしか自己表現できないのです」と訴えても、「仕方ないわよねえ。私は専門家でないから、至急専門家に連絡してからどうしたらいいか伝える」という返事で、その専門家の件もそれきり連絡はありませんでした。

 他方、園長は、私たちの専門家を入れてほしいという希望とも県の指導とも関係なく、ある日突然、「今後、この方が副園長的立場で、処遇について職員の指導をする」と言って、小学校の校長を定年退職した大関幸麿という人を連れてきました。この方は、元教育者とは言え、施設内の処遇や問題行動のある子どもの処遇についてはまったく慣れておらず、荒れた子どもたちへの対処については、ほとんど力にはなってもらえませんでした。私たち保母は、連日万引きした子の被害者のところに謝りに行ったり、無断外泊をして行方不明の男子を朝まで探し回ったり、くたくたの状態でしたから、こんなせっぱ詰まった状態なのに、どうしてもっと保母や子どもたちに有益な人を連れてきてくれないのだろうと、くやしい気持ちでいっぱいでした。

 こんな状態でしたから、子どもが深夜暴れたりすると、保母も仕方なく、本来直接処遇をしない約束だった園長を呼んで来ざるを得ませんでした(大関先生は、昼間だけで夜はいません)。すると子どもたちは、「園長を入れないと言ったのに、先生たちは嘘をついてるじゃないか」と私たちを責めます。私たちは、子どもを園長の体罰から守るために、園長の直接処遇をはずしてほしいと要請したのに、自分たちだけでは子どもに対処し切れず、結局園長の力を借りることになってしまったのですから、まったく子どもの言うとおりで、無力感にさいなまれました。また保母も、子どもが暴れると、自分の身を守ったりその子自身が怪我をするのを防ぐために、身体で押えなければならないこともあったのですが、八月二三日に二人の子どもが児相に行き、保母が体罰を振るっていると訴えたと園長から聞かされた時には、本当にショックでした。こうして私たちは、子どもたちへの暴力や虐待をなくす為努力したのですが、その子どもたちからの信頼も失っていったのです。

九、平成八年一〇月二三日の園長の暴力

 一〇月二三日、荒れた男の子(児相に駆け込んだ子)が職員と話しているうちに「こんなところにいたくない」と言って手で壁をたたいていたところ、園長が「壁を壊す気か!」と怒鳴り、その子の顔をパーンと拳で殴って鼻血を出させました。
 私たちは、そのことを批判しましたが、職員が目の前で見ていたことなのに、園長は「そんなことはしていない」としらを切り、○主任も「たまたま男の子が暴れてたから、当たって鼻血が出ただけ」だと園長をかばいました。これを聞いて、私たち保母は、これではやっていけない、園長は全然反省していないと感じました。
 こうして園の中は何一つ改善されることなく、混乱の中で、子どもたちは他の養護施設に一人、教護院に三人と次々園を去って行きました。

一〇、保母全員の退職

 これまでに述ベた挫折感の中で、保母たちは疲れ切り、平成八年の年末から一月にかけて次々と退職願いを出し、平成九年の三月には、主任保母と○指導員(園長の息子)を除く全員が退職することになりました。

 園長は、四月以降の為に新しい保母・指導員を採用しました。このように殆どの処遇職員が辞めてしまうことは、たいへん特殊なことです。

 新任職員との引き継ぎについては、時間をかけ直接話し合ってて引き継ぐことを希望しました。しかし、引き継ぎ事頂については、すベて文書にして○主任に渡すようにとの園長の指示がありました。園長は、新任職員を私たちとは接触させたくないのだろうと、私たちは感じました。

 直接新任職員の人達と会ったのは、私たちが園を去る三月二九日のほんの数分間だけです。子どもの健康にかかわること(持病や薬の服用等)のみの最低限度の引き継ぎをしただけで、あとは○主任に提出した文書のみの引き継ぎとなりました。
 私たちが辞めた後も、園長や職員による子どもたちへの体罰の話が聞こえてきます。また、措置停止も解除されて、新しく措置された子どもたちは幼児ばかりと聞いており、体罰や虐待があっても、それを児相等に訴えられる子どもはほとんどいないだろうと思います。
 今振り返ると、子どもたちや私たち保母が、県や児相に実情を知らせていったのに、本質的な園長の体罰や虐待、精神的な威圧のことが何も改善されなかったことが残念でなりません。もし、県や児相が、園長に対するきちんとした指導をしてくれて、せっぱ詰まっていた私たち職員への専門家の援助や、長年体罰や虐待で育てられてきた子どもたちに必要な心のケアーを援助するシステムがきちんとあり、それが実行されていたら、違う結果になったかもしれないと思います。

   以上