陳 述 録 取 書
平成一一年三月一一日
千葉地方裁判所民事第五部御中
- 私の名前は○○○○○といいます。昭和五六年六月二日生れです。生れてまもなく母が亡くなり、乳児院に預けられました。二歳頃から、恩寵園に在園していました。父がいますが、一緒に暮らしたことはなく、平成一〇年三月、形だけ父に引き取られるという名目で、迫い出されるようにして園を出るまで、ずっと園で暮らしてきました。
恩寵園での異常なできごとは、いくつでも思いだすことができます。幼い頃の記憶もとてもはっきりしていて、自分でも驚くほどです。普通の世間では考えられられない世界だったのです。
- (省略) そしてスカートを履くことを禁じられてしまいました。私はスカー卜が大好きでしたから、悲しくてしかたがありませんでした。隠れてスカートをはいているのを見つかると、お尻をひどく叩かれました。
私への保母さんや園長の見方はそれからもずっと変わらず、小学校の頃も少し女の子っぽい服を着ようとすると、だめだといれれていました。
- 恩寵園では、小学校三年生ぐらいまでの子どもたちは、廊下を走ったとか、落ちていたものを食べたなどの些細な理由で、毎日のように職員や保母に取り押さえられ、何十回もお尻をたたかれていました。子どもたちはだれでも、お尻に青痣をつけていました。入浴の時には、それがよくわかりました。
「恐怖の乾燥機」という罰がありました。これは大型乾燥機の熱いところへ子どもを閉じ込めて、ぐるりと回転させるというものです。すごく恐ろしいものでした。
「恐怖の乾燥機部屋」という罰もありました。これは乾燥機の裏の真っ暗な部屋に子どもを閉じ込め、ドアを外からがんがん叩いて恐怖を与え、子どもが泣きわめき、恐ろしさに失神する寸前まで出してやらないというものです。
入浴時、とても熱い湯に一〇〇秒つかるという罰もありました。
幼児さんでも、食事抜き、正座何時間という罰がしょっちゅうありました。このような罰を受けると幼児さんなどふらふらになって立てなくなってしまうのです。
- 園長は、子どもたちにとっても、保母さんたちにとっても、とにかく怖い人でした。園長が食堂などに入ってくると、それだけで子どもたちは静まりかえリました。
私は幼い頃から、年長の子どもたちが直立させられたり、正座させられたりして、園長にバット、鉄パイプ、鎌、木刀などで殴られ、血を流す光景をいつも見ていました。廊下に血だまりができていることも何度も見ています。ひどい怪我をしているのに、医者にも連れていってもらえず、怪我が直るまでは学校も休まされていました。園長がやったということを、外の世界の人に知られてはまずいと思ったからでしょう。
中学生の男の子が、裸にされ、首から下を鎖でぐるぐる巻きにされて首輪で廊下の柱につながれて、食事も丼にいれたものを床に置かれていたのを見たことがありました。かわいそうでたまりませんでした。
また男の子たちが髪の毛を、星形やハート型に剃られ、外出できないようにされていました。その子たちも髪がはえそろうまで、風那ということで学校を欠席させられていました。別の中学生の女の子は、頭を丸坊主にされ、そのまま学校へ行かされていたことがありました。
中学生ぐらいの女の子が、園長に立たされて脂をびりびりと破かれたり、別の高校生のおとなしい女の子が、殴られたり階段から突き落とされたりした挙げ句、部屋の中のものを窓から放り出され、上半身プラジヤーだけの姿にされて泣いていたのも覚えています。
園長は、トイレに行かせないという罰もしょっちゅう行いました。尿意を我慢している様子を見て、にやにや喜んでいるような感じがして、たまらなかったです。また集会中に気分が悪くなったといっても認めず、吐いたり、倒れたりすると、「集中力がないからだ」と怒鳴りました。
- さらに異常な事件として覚えていることもいろいろあります。
小学生の男の子が足首にプロミスリングをしていたということを園長に見つけられ、大きな机の上に仰向けに寝かされました。子どもたちが呼び集められ、皆の見ている前で、園長は「こんな足はいらない」といって、包丁を向こうずねのところに押し当てて、血が出るまで押しつけたのです。その子は痛みのあまり絶叫していました。保母さんが「やめてください」と止めにはいったのですが、園長に投げ飛ばされてしまいました。私は怖くて怖くて、自分の服のすそをぎゅっとつかんで泣くのをこらえていました。私の隣には、その男の子の姉もいて、自分の弟の苦しむ姿をどれほど辛い思いで見ているか私にはよくわかりました。
また別の小学生の男の子がふたり、ベッドの中でじゃれあっていたら、園長がやってきて、「お前らホモか」と叱り、別室に連れていきました。私は廊下にいたのですが、中で園長が男の子の性器を挟みで切ろうとして、子どもたちが絶叫し、保母さんが「やめてください」と叫んでいたのを聞きました。
小学校低学年の子どもが、お腹がすいてつまみぐいをしてしまった時のことです。園長に「そんなに食べたいなら食え」といわれ、丼二杯のご飯を皆の見ているまえで口に詰め込まされました。その子は吐いてしまいましたが、すると園長に殴り倒されたのです。
誤って鶏を死なせてしまった子どもがいたのですが、園長はその子に鶏の死骸を抱いて寝るように命令しました。鶏の顔と向きあうように布団に置かれ、どんなに気持ち悪かっただろうと思います。
園から逃げ出そうとして捕まった中学生の女の子がいました。園長に木刀で背中を殴られていました。でもその後めげずにまた逃げ出し三日かかって親のところまで帰ったのですが、医者に診てもらったら、背骨に骨折があったのだとあとで聞きました。
- 私自身が園長から受けた仕打ちについて、次に述べます。
私が六歳のころ、園長の指示で他の二、三人の子どもと一緒に、それぞれ両手を縛られ、麻の米袋に詰め込まれて、庭の木や、塀につるされたことが何回かありました。何時間もつるされて、顔を出すとまた押し込められられました。何が理由だったのかは全く覚えていません。
小学校四年の頃、お気に入りの服があり、洗濯するのがいやで三日着ていたら、園長に「乞食みたいな格好をしたいなら裸で行け」と言われ、服を脱がされてパンツだけにされた上に、自分の服を全部没収されてしまいました。その日は学校も休まされ、夕方までパンツ一枚で過ごさなけれはならなかったのです。夕方になって保母さんが服を取り返してくれました。
小学校五年の頃、服の袖が長過ぎると園長に叱られ、園長室に連れて行かれました。恩寵園では服の袖は手首より上になければならないという決まりがあったのです。園長は服を脱ぐか、袖を切るかと言われ、好きな服だったので切られても着ていたいと思ったのですが、結局袖も切られ、服も脱がされて没収され、下着のままで部屋まで帰れといわれました。ものすごく恥ずかしかったです。
やはり小学校の時、園長から手をつかまれたり叩かれたりしたあと、腕がものすごく痛かったのに、信じてもらえず、我慢し続けていたことがありました。一日たって、あまり痛そうなのでまわりの子どもたちが保母さんに話してくれ、やっと医者に連れていってもらったら、腕が骨折していたということがわかりました。
- 年中行事として嫌だったのは、毎学期、通信簿をもらってくると、ひとりずつ園長に見せにいかなければならないということでした。園長の気分次第でひどく叱られたり、罰を受けたりするのです。まず通信簿の出し方から間違えるとその時点で殴られます。成績が悪いと、そろばんで頭を削られたり、ドリルを一日で終えない限り食事をさせてもらえなかったり、廊下に立たされたりしました。何より子どもたちが恐れていたのは、二学期の通信簿でクリスマス会に出てはならないという罰でした。めったに食べられないケーキが食べられなくなるというのは、子どもたちにとってひどい苦痛でした。みんな園長の機嫌を推し量りながら、はらはらしながら、園長室へ出かけていったものです。
また園長は中学生の子どもたちが反抗的な態度を取り、邪魔になり出すと嘘を言って教護院に送るといううわさを聞いていました。私自身も園長に「そろそろ教護院に飛ばすか」と脅されたことがあります。
私は中学へ入ってパスケット部に入部しましたが、クラプが大好きで楽しくてしかたがありませんでした。しかし園長から何かにつけ叱られ、「クラブ活動に参加してはならない」と言われたことがありました。私は悲しくて、腹が立って、手首を切って自殺をはかりました。
また私は、中学三年ごろからは、園長にも直接自分の意見をいうようになりました。それは園長から見ると反抗的な態度に見えたのだろうと思います。それまでは虐待されていて、園長がこわくて、自分を表現することなどできなかったのです。園長は他の子どもたちに私のことを「あいつは不良だ、近寄るな」と言ったことがあり、それを聞いた私は怒りのあまり、自分の拳でガラスを割り、手を血だらけにしたこともありました。
- 私を含め、子どもたちは園長の虐待について、もうどうしようもないことと諦めていました。「ちくったら、園長に殺される。」というのが、皆の思いでした。
子どもたちどうしで、「私たちって何のために生れてきたのだろう。こうやっていじめられるために生れてきたのだろうか。どうせ親に捨てられた子どもなんだから、しかたないのか。」と、よく話していました。
園長は、何かあるごとに「親を恨め。お前たちが苦労するのも、お前らを捨てた親が悪いんだ。」とすべて親のせいにしようとしていました。
- そのような状況の中で、平成八年四月、子どもたちが園を脱走する事件が起こりました。園長が、子どもたちの郡屋割りを一方的に変えようとしたということがきっかけだったようですが、保母さんたちが子どもたちに、「ごめんね。もうあなたたちをこれ以上守っていけない。私たちもやめるしかないけれど、あなたたちも逃げなさい。」と話しました。
ほとんどの子どもたちが脱走しました。園に残りたい子どもなどいるはずはないのですが、幼児さんたちはとても逃げていけなかったのです。私は幼児さんたちが心配で、逃げ出しませんでした。逃げた子どもたちの中では、千葉中央児童相談所に行った子どもたちは、「入れてももらえなかった。」とすぐに帰ってきました。他の子どもたちも、順々に帰されてきたのです。
児童相談所や県の人が子どもたちから事情聴取をすると言って、園にやってきました。私も話を聞かれました。でもほんの少し話しただけで、この人たちは、園長のフォローをしにきただけだと感じ、何も話す気がなくなりました。私たちが暮らしてきた異常な世界のことをわかってもらえるとは思えないうえに、「そのような反抗的な態度がいけない。
もっと素直になりなさい」などと言うので、ますます話す気力がなくなりました。児童相談所や県の人たちには、今回話したようなことは、ほとんど話していません。
県の児童課の成田課長が来た時に、一度だけ「辛いね」と言ってくれたことがあったのです。私たちは、この人はわかってくれるのではないかと思いました。そこで「知事への手紙」という形で皆で手紙を書いて、成田課長に託したのです。
しかし返ってきたのは、印刷されたみな同じ文面で、子どもたちはひどくがっかりしました。
- 脱走事件のあと、園長が急に変わったというほどのことはありませんでした。殴る、蹴飛ばすなどは日常茶飯事でしたから、それまでと変わりませんでした。ただ大量の血をみたり、絶叫を聞いたりということはなくなったかもしれません。それを変わったというなら、変わったのかもしれません。このあとも、私自身、電話の使い方のことや、幼児さんの部屋に入ったなどの理由で、殴られたり、腰を蹴られたりしています。しかしこの程度のことは、もう暴力とも感じないはど、私たちは鈍感になっていたのです。
- 私は高校へ進学しました。一年の三学期、突然園長室に呼ばれ、「三〇分後に退園」といわれたのです。事前に何の知らせもなく、全く驚き、慌てました。車が待っているといわれ、荷物をまとめて、車に乗せられました。幼児さんや小学生の子どもたちが、車のあとを追ってきました。とても悲しかったです。
児童相談所に連れていかれ、父親に引き渡されました。何が何だかわからないまま、父親は私を、母名義で残っているほろぼろの一軒家に連れていき、当座の生活費だけ渡すと、その日のうちに同棲相手の家へ帰ってしまいました。
それ以来、私はこの家で、ひとりで生活したり、友だちと暮らしたりしています。生活費も満足にもらえず、しかたなく水商売などのアルバイトでしのいでいます。そのような私の生活を見かねて、現在この裁判の原告にもなっている浦島さんを初めとする、子どもサポートネットの人たちが相談相手となり、手を貸してくれています。
- 私は今は、普通の社会で暮らしてはいるわけですが、恩龍園の中での異常な生活から受けた精神的な影響は、いろいろな面で出ていると思います。
「大人は皆悪魔だ。絶対信用しない。」という気持ちがなくなりません。あれだけひどいことをされても、誰も助けてくれなかったという状態の中で、私たちがそのような気持ちになってしまうのも無理はないのではないでしょうか。
また不安になってくると、自分の血をみると安心するという奇妙な癖があるのです。無意識の内に自分の腕を刃物で切っているのです。腕には無数の傷跡が残っています。
人の絶叫を聞くと耐えられません。全く関係のない悲鳴でも聞こえると、足が萎えてしまい、体中の力が抜けて、動けなくなるのです。
自分の体や命なんかどうなってもかまわないと、やぶれかぶれになってしまうこともたびたびあります。人から見るとものすごく危険な行動も、何故かやってしまうのです。
私だけではありません。虐待されてきた男の子の中には、三重人格になってしまった子もいるそうです。虐待されていた事実を思い出す時と、全く思い出さない時があったり、意味不明の言葉を話し続けたりするのだそうです。
- 私は恩寵園の園長から受けた虐待を忘れることはできませんし、このまま黙ってやられっぱなしで生きていきたいとは思いません。それが許されないことであったということを認めてもらいたいし、そのために今回の裁判も行われているのだと思うので、こうして話す気持ちになったのです。
必要なら法廷で証言してもいいです。
本当はできることなら、私たちが直接園長に対して裁判を起こしたいと思います。あんな異常な世界がこの世に存在していたなどということが、許されるはずはないのです。閉ざされた世界で、傷つけられたたくさんの子どもたちの辛さと怒りを、園長に思い知ってほしい、そして今でも私たちと同じような苦しみを味わっている子どもたちを助けてほしいと心から願っています。
以上
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